ぶどう石

定点観測記録

一人あたりの分量が多くなりすぎてしまったかのような美

自然の引き当てた、一種の宝くじ的な美であり、何かの配分ミスで、一人あたりの分量が多くなりすぎてしまったかのような美

これは平野啓一郎さんの『かたちだけの愛』という小説の一節である。これを読んだとき、真っ先にいのちゃんの顔が浮かんだ。「一人あたりの分量が多くなりすぎてしまったかのような美」そうだ、これだ。さすが、作家さんは表現の仕方がうまい。

 

今日はあいにくの雨だが、多くの人が祝福していることだろう。きっと、祝福している人の数は過去最多なんだろうな。素晴らしいことです。おめでとう。

 

3月、私は萎えていた。新着情報がいのちゃん関連のものばかり。推されすぎて萎えるって本当にあるんだな、と初めての感覚に戸惑った。「もう、ええよ」「またかよ」「こんなことは望んでいない」「働かせすぎ、過労死してしまうよ」「与える仕事量が極端なんだよ、バランス考えろよ」「もっと大事にしてあげてよ」事務所への不満は募る一方だった。

 

ダメだ。このままではいのちゃん本人のことまで嫌いになりそうだ。なんでこんなことに。嫌いになったら事務所を恨むぞ。限界だったので、距離を置くことにした。露出が多すぎて、すべてを追うのはどう考えても無理なので、見る番組や雑誌を絞った。そうするだけでだいぶ楽になり、幾分か気分は和らいだ。

そして、そんなときに読んだ雑誌のインタビューが、一か月ほど続いた欝々とした気分を吹き飛ばしてくれた。ああ、やっぱり好きだなあ、応援したいと心から思えた。いのちゃんにはたくさん魅力があるが、その魅力がもっとも発揮されるのはインタビューだと私は思っていて、思わずメモしたくなるようなフレーズが散りばめられている。大ちゃんが言っていたように、名言集を本当に出してほしいくらい。いのちゃんのことで沈んでいた気持ちを明るく変えてくれたのは、彼自身の言葉だった。

 

なぜ、私はいのちゃんを担当にはしなかったのか。今まで何度も考えてきたけれど、いまだに答えはわからない。ただ一つ言えることは、担当にしなかったからこそ、これだけ長く好きでいられたのだろう、ということである。担当にしてしまうと、いつか飽きてしまう。私の場合は。特別枠にしておいて正解だったのかもしれない。いわゆる「担当」的な「好き」というよりは、尊敬や憧れに近いのだと思う。だって、人間として持ちうる魅力をこれほど網羅している人いる?なかなかいない。人間としてのレベルが高すぎる。昔、父が「『天は二物を与えず』なんて言葉があるが、実際は一物すら持っていない人がほとんど。その一方で、一人で三つも四つも持っている人がいる。」というようなことを言っていた(だから、せめて一物くらいはある人になれよ、という意味だった気がする)が、いのちゃんはまさに後者だなあと思う。

 

めちゃくちゃどうでもいい話だが、6月22日は小学生のころ好きだった同級生の誕生日でもあるので覚えやすい。なぜか、小学校の同級生の誕生日はいまだに覚えている。あの子ももう28歳になったのか~。けっこうおっさんやなあ笑

 

とりあえず、氷上での吐血が楽しみ!これ考えた人、最高に天才で変態だな!こんなシチュエーション、オタクでも思いつかないよ。

忙しいだろうけど、いつも本当に楽しそうで、しんどそうなところを一切見せないのが立派。知れば知るほど奥が深い。軽いファンかもしれないけれど、ただのファンにしては好きすぎると思うので、これからも好きでいさせてもらいます。